昨年は、嘘みたいなタイミングで龍馬関連の資料がどんどん発見されました。
それからだいぶ遅れて見つかった、今回の後藤象二郎の写真。
でも、このタイミング、偶然とは思えない。
そう思うのは私だけでしょうか?
後藤象二郎のこと
そもそも『後藤象二郎』のこと、皆どのくらい知ってるんだろう?龍馬ファンには馴染み深い人物なのかもしれないけど、昨年の龍馬ブームで初めて知った!という人も少なくないのでは?実は、私もその一人(笑)
そんな後藤象二郎のこと、簡単にまとめてみました。
※参照:Wikipedia
天保9年3月19日(1838年4月13日) - 明治30年(1897年)8月4日)
幕末の武士(土佐藩士)、明治時代の政治家。
義理の叔父・吉田東洋の少林塾に学び、幡多郡奉行などで活躍するが、吉田暗殺により一時失脚。
藩政復帰後は、前藩主山内容堂の信頼を得て大監察や参政に就き土佐勤王党を弾圧。
慶応3年(1867年)、政治姿勢を攘夷論に転換。
坂本龍馬と会談し、龍馬の提案とされる船中八策に基づいて
将軍・徳川慶喜に対する大政奉還論を提議。
大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。これを受けて10月14日に慶喜が大政奉還を行う。
明治時代に入ってからも新政府で要職に就くが、明治6年(1873年)、征韓論争に敗れて下野。
その後は愛国公党結成や自由党の結成参加に尽力したほか、実業界への転身を図るが、これは経営破綻となる。
明治20年(1887年)伯爵となり、逓信大臣や農商務大臣などを歴任。
明治27年(1894年)に大臣職を辞任し、明治30年(1897年)逝去。享年60。
今回見つかった写真は、明治時代に入ってから実業界への転身を図った
30~40歳代の頃のもの。
脇差しを腰に帯びた紋付きはかまの立ち姿(和装)と、洋装の横顔の2枚があり、
高知県南国市の県立歴史民俗資料館の野本亮学芸員によると
「洋装の写真を見ると、武士の時代に区切りをつけ、新時代を歩もうとする気概がみてとれる」
時代が大きく変わった、その時の写真といえる。
「つなぎ」役の重要性
龍馬との「シェイクハンド」はなかったにせよ、「船中八策」を「大政奉還建白書」へ。
脱藩浪士・坂本龍馬を前土佐藩主・山内容堂へ。
さらには将軍・徳川慶喜へ。
つなげたのは、後藤象二郎といえます。
そんな後藤象二郎の写真が、
震災によってこれまでの生活が大きく変わった今、見つかった。
これは、単なる偶然でしょうか?
龍馬は、常識にとらわれない柔軟性と行動力、そして人望をもっていたけど、それだけじゃ大政奉還はできなかったかもしれない。
脱藩浪士として、要注意人物として、薩長や幕府、土佐藩からさえ追われる身だった龍馬にはアイデアがあっても国を動かすだけの力はなかったと思う。
そんな龍馬のアイデアを土佐藩一の実力者・山内容堂に訴え、
将軍・徳川慶喜への大政奉還建白書提出までこぎつけたのは、後藤象二郎。
この「つなぎ」役がいたからこそ、大政奉還ができたのではないでしょうか。
今、皆が自分にできることを行動にうつしています。
それぞれが復興策を考えています。
じゃあ次は、その行動やアイデアを国全体の対策となるよう「つなぐ」ことが重要ではないでしょうか。
吉富さん、後藤象二郎の写真発見も、面白いですね。今、出るなんて。
「龍馬伝」が終わり、出版社などは昨年、くだらないものを多く、出したりで、えげつなかったけど、なりを潜めてる。
でも、面白くなるのは、龍馬の件は、これからですよ。
龍馬暗殺の謎を解く、新事実が、何か、見つかったと、ささやかれてもいる。
情報は知ってますか?
今年5月の連休に、細川潤次郎生誕の地の碑があることを知り訪ねました。義母が孫、妻が曾孫にあたりますが、そのような碑が立っているとは知あらなかったとのこと。因みに、義母は井伊直弼の娘、真千代(待子)の孫で、青山幸宜の孫でもあります。細川の長男、一之介が大山巌(西郷隆盛といとこ)の娘と結婚していますので、幕末、明治、大正を生きた人達と細川潤次郎の姿が碑を見ることで実感できました。細川が徳川慶喜と関わりのあった山之内容堂の侍読であったことや、中浜万次郎と親しかったこと、坂本竜馬から細川に宛てた手紙があることからも、尊王攘夷、大政奉還の激動の歴史の中で、歴史のつなぎ役ではなく、後世に知られていないだけで、主人公の一人であったと思います。義母も妻も全く興味が無いようですが。