いろは丸事件、みなさんご存じですよね?
今から143年前の今日。5月15日は、いろは丸事件の賠償金を掛けた交渉が長崎で再開された日なのです。
そしてなにより、あの暗殺の日からちょうど半年前。
というわけで、今回は、いろは丸事件について簡単におさらいです。
2010年7月7日追記
大洲市街づくり会社 株式会社おおず街なか再生館Mr.Kさんから
以下のような、最新最真の情報を頂きましたので追記いたします。
大洲藩船「いろは丸」の記述について。
上記「いろは丸」の記述については、当社が昨年12月に、「大洲歴史懐古帖」というパンフレットを大洲市からの委託により制作中に発見された「蒸気船購入契約書」を、大洲市が東京大学史料編纂所の岡美穂子助教に解読依頼をし、判明した「史実」と異なります。
解読の結果、大洲藩は、ポルトガル領事「ロウレイロ」から40,000メキシコバタカ(当時の日本円で10,000両)で購入の契約を結び、なおかつ契約時点で全ての購入代金を支払い済みであると明確に記述されております。
大洲藩がこの蒸気船を薩摩藩から購入した背景には、大洲藩の侍講「武田敬孝(ゆきたか)」建言と指導によるものと考えられ、大洲藩が購入の時点から関与していたと考えられます。
薩摩藩が「安行丸」をポルトガル領事「ロウレイロ」に売却したのは1866年(慶応2年)正月5日(諸家届伺船買入御附礼=長崎運上所=に届け出受理の記載有り)、国島六左衞門が長崎へ向かったのは、1866年6月。そして、契約を結んだのは1866年8月14日(契約書には1866年9月22日=西暦と記載)です。
当時の大洲藩十三代藩主加藤遠江守泰秋及び当時の家老3名の署名もあり、また、「いろは丸」という船名は、契約時に大洲藩が宣言したとの明確な記述もあります。
上記は、現在判明しております一部ですが、現在、高知並びに檮原などの関連地域で展示されている「いろは丸」の歴史内容につきましては、ほとんどのものが今回判明した「史実」を反映されておりません。また、大洲藩の使者2名が国島が亡くなる20日前に長府藩に出向き、禁門の変で多くの囚人を預かった大洲藩が多額の出費を強いられていたことから、これらの資金を大洲藩に判明しております。先の契約書には、このほか、船の売買に関してこれまで表に出ていなかった新たな売買の構図も読み取れ、今後の新たな発見も期待できます。
大洲市街づくり会社 株式会社おおず街なか再生館
く、詳しい。ヨシトミの知識を遥かに超えた内容だったため、うまく伝えられず、ご本人の了解を得て最新情報をそのまま掲載させて頂きました(汗)。
なんにせよ、この龍馬ブームを機に
いろんな情報が発見され、幕末の歴史が明らかになることは
本当に素敵なことです。当時の人々が、日本を救った歴史なのですから。
追記終わり。
いろは丸事件の概要
海援隊が大洲藩より15日に付き500両で借り受けている借用船いろは丸と、紀州藩船明光丸が衝突、いろは丸が沈没した事件。
慶応3年4月15日、積荷を満載したいろは丸は、長崎を出港し馬関海峡から瀬戸内海を航海中の同月23日午後11時ごろ、同じく瀬戸内海を長崎に向けて航海中の明光丸と、讃岐の箱の岬沖で濃霧のため衝突。160tのいろは丸は、880tの明光丸の船首を右舷に受けて浸水し、船首から沈みそうな状況に。
明光丸は90mほど後退した後、なぜか再び前進していろは丸の船腹に衝突。
龍馬は、沈没の危機を感じて乗組員を明光丸に乗り移らせる。
龍馬は明光丸船長の高柳楠之助にいろは丸の曳航を依頼するが拒絶され、沈没。
龍馬と高柳の合議のうえで明光丸は備後の鞆に入港し、
長岡謙吉とともに今後の交渉に臨むが
事件の解決まで出港を見合わせるようにとの依頼を、
高柳は藩命を理由に拒絶。
代案として龍馬はとりあえず1万両の用立てを求めましたが、
後日の交渉でこれが賠償金の一部であることを知った紀州側が拒否したため、
交渉は難航。
そこで長崎で正式の談判を行い、公論によって決着をつける以外にないということになり、
隊士と共に鞆を出立し29日には下関、5月13日に長崎に到着し、
長崎での交渉は15日から始められました。
【いろは丸とは】
伊予大洲藩所有の蒸気船。
長さ三十間、幅三間、深さ二間、四十五馬力、百六十トン。
三本マストを備えた鉄製内車(スクリュー推進)型蒸気船。
文久二年(1862)にイギリスのグリーノックで建造され、原名をサラー号。文久三年(1863)に薩摩藩が購入し一旦は安行丸と命名されて、白地に黒の轡の紋の旗(丸に十の字の薩摩の旗)を掲げて運航。
しかし薩摩藩は、艦船の大型化政策を推進し別の大型船に買い換えるために、慶応元年(1865)五代才助がオランダ商人・ボードウィンに売却した。そして翌慶応二年、鉄砲等武器購入の目的で長崎に来ていた伊予大洲藩の国島六左衛門が、龍馬や五代才助の周旋でボードウィンから購入し、坂本龍馬が「いろは丸」と命名したものである。実は国島六左衛門は「いろは丸」購入について藩の許可を得ていなかった為、実際の航海に就く直前の十二月二十四日、其の責を負って自刃。
【明光丸とは】
明光丸は、紀州和歌山藩の蒸気船。
長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トン。
鉄製内車(スクリュー推進)型蒸気船である。
文久元年(1861)にイギリスで建造され、原名をバハマ号。元治元年(1864)十月に和歌山藩がイギリス人トーマス・グラバーから十五万五千ドルで購入し、明光丸と命名。いろは丸に比べて約5倍のトン数と3倍の馬力。
龍馬最後の半年間
この事件には、海援隊の命運が掛かっていました。ワイルウェフ号沈没から約1年ようやく手に入れた船、そして積荷が沈められたわけで、
龍馬も命を掛けて交渉に挑んだことでしょう。
実はこのころの龍馬の手紙は10通以上、今も残っています。
それらの手紙はまた、次の機会に検証してみる予定です。
かなりざっくりですが、残りの半年を整理してみます。
4月
いろは丸事件
5月
いろは丸事件の談判続く
6月
土佐・薩摩・芸州三藩にて王政復古推進のため「薩土芸三藩約定書」が結ばれる
7月
イカルス号事件勃発対応に追われる
8月
佐々木高行とキリシタンを利用した倒幕案などを語る
9月
イカルス号事件の嫌疑が晴れる
10月
大政奉還
11月
龍馬暗殺
個人的には8月30日、佐々木高行と論じた
「キリシタンを利用しての倒幕案」『保古飛呂比』が気になります。
だれか詳しい方いらっしゃいましたらぜひ下のコメント欄に書き込みお願いします。
143年前の龍馬。
日本という国を守るため、倒幕へ向け
まさに命を賭けた半年ですね。